仕事に憑かれて、ここ暫くは連絡も途切れがちだったクリスから、嬉しいEメールを受け取った。久し振りに次の日曜日、ゆっくり休みがとれると言う。その週末を土曜日の夜から、またティブロンで一緒に過ごさないかというお誘いだった。
もちろん即OKだ!
土曜日の夕方は、遠足を待つ子供のようにわくわくしながら、彼が仕事を終えて来てくれるピックアップを待った。
もう外でのディナーには遅い時間だったので、お迎えが来るのを待つ間、ティブロンに着いて一緒に摘める物をチョンチョンと料理して弁当箱に詰めた。
そしてそれを、パリッとアイロンをかけた一番お気に入りのナプキンに包み終えた時、同時にインターフォンのベルが鳴った。
バスルームに駆け込んで、大きな鏡で全身の姿をチェックする。
『うん、なかなかいい感じ!』
自分に気合いを入れるように呟くと、急いでお泊まり用のバックをひっ掴んでエレベーターを降りていった。
ドアが開くと、エントランスのすぐ外に、クリスが車を降りて待っていてくれるのが見えた。
久し振りに見る彼の姿は‥、何だかまたボロ雑巾のように疲れ果てて見える。
しかし、その大きな眼鏡の奥では、相変わらず悪戯な深いブルーの瞳が笑っている。
「オゲンキデシタ?」
「ハイ。アナタハイカガオスゴシデシタカ?」
重いドアを開けるなり、照れ隠しの言い訳をするように、二人戯けて大袈裟なハグとキスを交した。
久し振りのハグが、時間の空白を埋めて行く。
「ずっと、君のこと考えてた。」
「会いたかった!」
そう言って身体を離して姿勢を正すと、今度はクリスは少し背を屈め、ゆっくりキスをしてくれた。
車がまた、ゴールデンゲート・ブリッジを越えて行く。
窓の外の街頭の灯が、ハンドルを握る大きな手を一瞬一瞬浮き出させては、後ろに飛んで消えていく。普段ならとってもロマンティックなティブロンまでのドライブ。しかし今夜は、テープから流れる甘く切ない歌声も、クリスの耳には全く届いてないようだった。
さっきから彼は、まるで十年も会ってなかったように、空白の時間にあった心の葛藤物語を、また本気とも冗談とも取れない口振りで話し続けている。小さな男の子が母親の愛情を確認するように私に向けられるクリスの瞳。温かい物が胸に走る。
フリーウエイを降りて丘をのぼって行く途中、スーパーに立ち寄って、ワインと朝食の材料を手に入れた。
夜も遅く人も疎らな店内を、二人並んで思い付くまま、野菜や玉子、ベーコンなどをカートの中にポンポン放り込んで行く。何だかもう、一緒に暮らす二人のオママゴトのようだ。
買い物を済ませてレジに行くと、イヤにテンションの高いヒスパニックのお兄ちゃんが、レジをうちながら私達の顔を交互に見てウインクした。ポーカーフェイスの下に隠している、心がスキップするような思いをのぞき見られたような気がして、思わず一瞬顔を伏せた。
スーパーを出て大通りに戻ると、そこからはまた丘をのぼり、遠くに見えるダウンダウンの宝石箱を見渡しながら車は駐車場へと入って行った。
エンジンの音が止まると同時に、クリスの家の玄関のドアが開き、金曜日から泊まっているという二番目の弟のボビーが顔を出した。
ガタガタとデッキを渡ってこちらの方へやってきながら、先に車を降りたクリスと二、三言葉を交わした後、私の方に向けて軽く挨拶の手をあげて『ハイ』とぎこちなく笑った。
ロサンゼルスで法定弁護士をやっているというこのボビー、前に会った末のジェスの甘くてほんわかしたムードとは対照的に、何だか厳めしい顔つきをして、ちょっと攻撃的な印象さえ受ける男だ。
クリスのこの三兄弟、顔は皆よく似ているのに、このボビーだけは、目と髪の色が濃い茶色だ。身長も私と同じ位で、アメリカ人にしてはおチビさん。
一見見る性格も、身のこなしの優雅な二人に比べて、このボビーには、せっかちさんが服を着て、どことなく『刑事コロンボ』を思わせるような不器用さが漂っている。
こんな『突然変異』も、遺伝子のご愛嬌といった所なのかしら?
そんなことを考えながら、ボビーと軽い握手を交す。
大きな手のひらからは思いがけず、クリスと同じ暖かさが私の手に伝わって来た。
その夜は、ボビーも交えて、まだほんの少し季節の早い暖炉に火を入れた。
きりりと冷えた、クリスのとっておきのシャルドネが注がれたグラスを持ってソファの腕にもたれると、おどけるように、クリスもぴったりと私の横に座った。
巨大なソファの端っこで団子のように固まる二人。そんな私達を見て、サイドソファのボビーが笑う。
そうして腰を落ち着けた後は、クリスとボビーはただ昔話に熱中し始めた。
柔らかなセーターの肩にもたれながら、ぽかぽか顔にあたる暖炉の火が心地よい。
話にポーズが空く度に、クリスが思い出したようにグラスに冷たいワインを注ぎ足してくれる。
少しずつ痺れ始めた感覚の中で、目の前の二人のそっくりな顔が、絵の具を塗り替えたダブルのクリスに見えてくる。ステレオで耳に響く『二人のクリス』の穏やかな声とパチパチ弾ける炭の音が、だんだんシンクロし始める。
自分が今、過去にいるのか未来にいるのか‥。そのままうつらうつら‥いつの間にか記憶は薄れていった。