それからどのくらい時間が流れただろう‥。
シーンと静まり返った部屋の中に、静かに携帯電話の呼び出しのメロディーが流れ始めた。
ギクリと心臓に電気が走り、身体中の毛穴が総毛立つ。
『フレッドだったらどうしよう‥!』
凍り付くような緊張を感じながら表示されたコールIDを確認すると、そこにはクリスの番号があった。点滅するアンサーボタンに触れながら、いくつか咳払いをして声を整える。そしてひとつ深呼吸をすると、その後思い切ってボタンを押した。
「ハイ、ハニー。」
週末フレッドと会う時間の後、クリスはよく電話をくれる。
ベビーの受け渡しで否応無しにフレッドに会わなければいけない私の動揺を、彼なりに気にしてくれているようだ。
張り詰めた神経の隙間に柔らかい声が響いて来る。
返事をしようと軽く息を吸い込んだ途端、こみ上げた涙にむせ込んだ。
平静を頑張る程、しゃくりあげる嗚咽で言葉が出ない。
「今、どこにいるの?」
「‥‥‥‥。」
「ホテルだろう?今からそっちに行くからね。今日は夜勤で仕事のシフトが午後からなんだ。」
「‥‥うん‥。」
十五分後、クリスが合い鍵を使って部屋の中に入って来た。
枕を抱えてうずくまった体が、大きな腕の中にすっぽりと包まれる。
嗅ぎなれたコロンの香りに、心がふわっと安心した。
「さあ、何が起きたのか説明して。」
私が少し落ち着いたのを確認すると、クリスは静かに聞いて来た。
たくましい肩に頬を預けたまま、手にした書類を彼に渡す。
受け取った書類の束を見て、クリスはいつになく真剣な表情でその全部のページに目を通すと、
「これはひどいね。」
大きなため息をつきながら、小さく唸るように呟いた。
しかしそう言った次の瞬間、彼の青い瞳はニッと笑い、不安げに顔を見つめる私の鼻を人指し指でピンと弾くと、『こんなものは紙屑と一緒だよ』と言わんばかりに書類の束をベッドにポンと放り投げた。
「でもフレッドも馬鹿だよなあ。こんなことしたって自分の首を絞めるだけなのに。考えてもご覧よ。大体こんな事いったい誰が信じるの?君がアルコホリックだとかドラッグ中毒だとか‥。おまけにホームレスまでくっ付いて、もうここまで来ると立派なジョークさ!誰が見たって嘘だってことが分るだろう?」
そう言いながら、肩にまわした片方の手でクシャクシャと私の髪を掻き回すと、重たい空気を吹き飛ばすように軽いテンポで話を続けた。
「実際君は、今まで何ヶ月もシェルターでの生活を潜って来てるわけだし、それが判事に対しても、君がまともな人間だって事の立派な証明になってるさ。もし仮にそんな問題を抱えてる人間だったら、シェルターの前に、矯正のプログラムの方に送られてるよ。フレッドもこんなことばっかり繰り返してると、まったく『自分は嘘つきです』って大声で吹聴しているようなもんだよな。」
「ふふふ‥。」
テンポの軽い気楽な声に、心が解放されて行く。
ピリピリ神経を突いていた物たちがゆっくり外に溶け出して、つい今しがたまで涙でふやけ落ちそうだった顔に、また笑顔が浮かんで来た。
私の笑顔が戻ったのを見て、クリスはもう一度私の髪をクシャッと掴み、頭に軽くキスをすると、ベッドから立ち上がってキッチンへ行き、コーヒーメーカーの中に残っていた一人分のコーヒーを二つのカップに注ぎ分けて戻って来た。
「さあ、仕事を済ませよう。」
それから後は、ローヤーに電話を入れシェルターの方にも連絡をとった。感情の渦の中でこんがらがって滅茶苦茶に絡まった糸たちが、スルスルと解け出し、また時間が流れ始めた。
そうして全ての『応急処置』が済んだ後は、ただクリスとベッドの上に並んで座り、繭に包まれるように時間を過ごした。
不安を根こそぎ摘み取るように、クルクル動くブルーの瞳が冗談を並べて行く。
「フレッドの鼻があんなに大きいのは、きっとジェベット爺さんの呪いだよ。嘘つく度に、ニョキニョキニョキニョキのびちゃうんだ。コートが終わる頃にはもうすっかり鼻がつっかえて、コートルームから出れなくなったらいったいどうするつもりだろう?それを考えると心配で、夜もゆっくり寝てられやしない。」
幸せなクスクス笑いが、重たい気分を吹き飛ばす。
力強い腕にしっかり体を抱き支えられながら、また明日を生きる勇気が沸いて来る。
「さて、嵐もおさまった様子だね。」
穏やかに微笑む私の頬にキスをしながら、クリスはゆっくりと身体を起こし静かにベッドの上からおりた。
「後でまた電話するよ。ちゃんとランチを食べて、今日はリラックスしてるといい。ベビーもいないし天気もいいし、僕が君と入れ代わりたいくらいだ。哀れな僕は、これから明日の朝まで仕事。ああ、いいなあ。船出したいなあ‥」
気だるそうにネクタイを正しながら鏡に向かってブツブツそう呟くと、鏡の中の悪戯な瞳がニヤリと笑った。その後は素早く私の耳にキスをして、クリスはバタバタ部屋のドアを開けた。
後ろ姿を見送りながら、口の中で小さく『ありがとう』と呟く。
パタンとドアが閉められた後も、そこから外を歩いていくクリスを感じながら、しばらくドアを見つめていた。
ダウンタウンに戻ると、早速また、フレッドとの第二ラウンドが始まってしまう。
でも私はもう一人じゃない。今では色んな人たちが、私の時間を見ていてくれる。
友達がいる。シェルターのスタッフがいる。
今まで出会って来た沢山の人たちが私の存在を知っている。もう、ヘイワードでひとりぼっちで泣いていた、孤独でちっぽけな私じゃないんだ。
『ふふふ。』
胸にポッとくすぐったい火が灯った。
「ありがとう。」
ドアを見つめながら、今度は少し大きな声で呟いた。