食事が済むと、後片付けをする私の横でしばらく興奮してはしゃいでいたお猿が急にコトンと寝入ってしまった。クリスがひょいと、その平和な身体を抱き上げてベビーベッドに運んで行く。
軽い旋律を奏でていたシャンソンが、クリスのお気に入りのブルースに変わった。
気だるいスローなエレキギターの音に、空気の色が変わって行く。
‥と、洗い物をする私の体が、後ろからふわっと抱き上げられた。
「ちょっと‥、まだお皿残ってるんだよ。」
そんな言葉など聞かないふりで、泡だらけの手が髪をつかむのも構わず、クリスはそのままベッドルームまで歩いて行くと、まるでクッションでも置くようにして私を小さなベッドの隅っこに座らせた
そうしてそのまま自分もベッドの上に這い上がり、私のおなかにぴったり顔を埋めると、山のような体を丸めて赤ん坊のように目をつむった。
しなやかな長い腕が、まるで迷子になるのを恐れる小さな子供のようにぎゅっと私の体を掴んでいる。
外ではERのドクターとして疲れ知らずに走り回るクリスが、二人っきりになった途端、こうして赤ん坊のように甘えて来る。
何とも言えない愛おしさがじんわり胸に滲みて来た。
重たい体を腕の中に抱き包みながら、静かに頭を撫でてみる。
柔らかな髪が指に絡み、そしてすぐにサラサラと解けて行った。
五分もすると、もう眠っているのかリラックスしているのか‥、まだ、私の腰にしっかりと両腕をまわして目を瞑ったままのクリスから、クークー安らかな息が聞こえ始めた。そんな様子を見守りながら、別にこれといってする事のない私は、指にあたる柔らかなブロンドの髪で小さな三つ編みを編み始めた。
『フフフ‥。』
そういえばこの明るい髪、ここ最近ではすっかりお猿の『被害』に曝されている。
クリスが食事に寄る日には、夕方三人でホテルの横のスーパーにお買い物に行く。そんな時のお猿のお気に入りはクリスの肩車。
背の高い彼がお猿を肩に乗せると、彼女はクリスの髪を『手綱』代わりにムンズと掴み、そこから見える高い目線がとてもお気に入りのご様子。
時々あんまり興奮して、肩の上で髪の毛をぶんぶんに引っ張りまわしたりするものだから、その度にクリスは、『もうちょっと加減して掴んでくれよぉ!髪の毛無くなったらママからも嫌われちゃうだろう!?』なんて、まだ言葉も話さないお猿に冗談とも本気とも分からない泣き声で頼んでいる。
二人の顔が頭に浮び、思わず『クック』とお腹が笑った。
クリスがふっと片目をあける。
『どうしたの?』とでも言うように眠たそうに頭に手をやると、彼はそこでニヤリと笑った。
'bad girl'
ゆっくり体を起こしながらパタパタと軽く頭を払うと、その不思議な色の三つ編みは、すぐにサラサラと解けて行った。
何度か髪を掻き揚げて頭を元通りに整えた後、クリスは両腕で私の肩をぐいっと掴んだ。
むせ返るような薔薇の香りを嗅ぎながら、大きな体が覆い包むように重なって来る。
私の中に、またクリスを感じ始める。
欠け落ちた体の半分が一つにくっつき、全ての隙間が満たされていく‥。
二月の真ん中にあるバレンタイン・デー。
ティブロンで過ごす時間も、もう半分終わってしまう。
過去と未来の幕間を漂よう時間の中で、沢山の扉が開いて行く
ティブロンで過ごす最後の週末。
この週末は、お猿はビジテーションでヘイワードの方に行ってしまう。
コーヒーを啜りながらお猿の用意を整えていると、誰かがドアをノックする音が聞こえた。九時十五分前。フレッドのお迎えだったら、彼とは九時にロビーで会う事になっている。
『誰だろう?』
のぞき穴の向こうには、フレッドの妹のアイリーンが立っていた。
全く思わぬサプライズ!
ドアを開けるや否や、私の体は胸に抱いたお猿ごと大きなハグで包まれた。
「元気そうだね、よかった。色々あって大変だったね。」
変わらない人慣つっこい笑顔に、懐かしさが込み上げて来る。
「今、丁度コーヒーが入ったとこ。飲んでく?」
「うんまあ‥あんまりゆっくりもしてられないんだけどね。ベビー、ヘイワードに送ったら、またその足でサン・ホゼまで行かなきゃいけないから。
あ、今日はフレッドが急に仕事入ったって事で、急きょ私が代わりにピックアップに来たってわけ。‥うん、やっぱりコーヒー一杯だけ頂いていこうかな。」
相変わらず少し神経質な音を響かせながら、次々と言葉が彼女の口を飛び出して来る。
「ああ、そうそう忘れないうちに。これフレッドから預かって来たんだけど。何だろうね。まあ封がしてあるから後でゆっくり中見てみて。」
そう言って鞄からオレンジの封筒を取り出すと、ぽんっとテーブルの上に投げ置いた。
フレッドの三兄弟の中では末っ子になるこのアイリーン。年が同じだという事もあって、ヘイワードの暮らしの中では唯一、言葉のバリアを感じる事もなく一緒に時間を過ごせた相手だった。
慣れない生活の中で四苦八苦する『義姉』を気遣って、時々ふらりと立ち寄っては、お互い特別に何をするわけでもなくベビーと遊んでコーヒーを飲んで‥。そんな気楽なつき合いが出来る彼女が好きだった。
今ではこうして穏やかな顔を見せている彼女も、若かりし頃はドラッグなどの問題で、家と刑務所を行ったり来りしていたという。そんな過去にあった凄まじい苦しみの軌跡を残すように、今でもその左腕には、大きく掻き割った傷跡が残っている。
仕事も未だ気分次第で転々と落ち着かないアウトローな彼女だったりするのだけど、そんな固い殻の内側には、とても脆い、繊細な優しさが隠れている。
以前、まだ十七、十八才の若い頃に、彼女も一度結婚していた事があったと話してくれた。しかし、その結婚生活というのがとてもひどい経験だったらしく、その後はずっと一人で通している。
『このアメリカってとこは、男はみんな下衆野郎ばかりだからね。もし、この先また誰かと結婚する事があったとしても、もう愛情なんて期待しないよ。ただ、キッドの種と生活の保証をしてくれて暴力振わないヤツだったら、もうそれで儲け物だと思わなくちゃ‥。愛だとか恋だとか甘ったるい事言ってるうちは、まだ実際の生活なんて見えてやしない。』
優しくベビーを腕に抱いて、窓の外に遠い何かを見つめながらぽつりぽつりと言葉をこぼす静かな横顔が、今でも胸に残っている。
落ち着いた瞳の中にある悲しさが、彼女が過去に潜り抜けた時間の欠片を映していた。
アイリーンと二人、キッチンのテーブルに陣取って、長い空白の中にあったお互いのストーリーを語り出すと、いつの間にか時間は飛ぶように過ぎていた。
すっかり冷めてしまったコーヒーのカップにお代わりを注ごうと私が席を立ったのを合図に、彼女は思い出したようにバタバタと帰り支度に取り掛かった。
「また、今度改めてゆっくり会いに来るから。あ、これ私の携帯の番号。何かあったらこっちに電話して。」
ベビーのバックを肩に担ぎ、小さなノートの切れ端を私の手に渡しながら片腕で軽くハグをくれると、彼女はそれまで大人しくテーブルの足元で遊んでいたお猿の手を取った。
アイリーンに手を引かれドアを出て行きながら、お猿が少し不安な顔で私の方を振り返る。 『いってらっしゃい』と無言の笑顔で見送って、二人が出て行くドアを閉めた。
一人になると急に部屋が淋しくなった。
キッチンに戻り、すっかり冷たくなったコーヒーを啜る。テーブルの上にはオレンジの事務封筒が残っていた。
『なんだろう?』
コーヒーをもう一口ぐいっと口に含むと、嫌な予感を押さえながら、早速そのフレッドから託されたという『お土産』の封を開けてみた。
中から出て来たのは、もう今では見慣れたコートの書類一式だった。
一瞬分けが分らずに、その物々しい紙の束に目を通してみる。ここまで来れば、これはもうりっぱな嫌がらせだ。
『いったいフレッドは、今度は何がしたいというのだろう?』
動転する頭で、そこにびっしりと英語で書き並べられた項目を読み進んで行くうち、 もはや呆れて空いた口が塞がらない気分になった。
『今や定住地を持たず、ホームレスのように滞在先を転々とする生活を送っている女性には、ベビーの母親としての資格は無い。ドラッグやアルコホリックの問題もまだ疑わしい事であるし、父親として、そんな人間にベビーを託しているのはとても心配だ。それに対して、自分にはちゃんとした仕事があり、ベビーにとっての責任感溢れる父親である。こうして状況を対比してみると、自分こそが子供の親権を持つ者に相応しい‥うんぬん、かんぬん‥。』
そんな事が今回もまた、ご丁寧に毎度ドラマティックな作り話も加えながら、何ページにも渡って書いてある。
責任感溢れる父親‥?
言っては悪いが、『へそが茶を沸かす』という言葉がこれほど相応しいジョークにはそうそうお目にかかる事もないだろう。
確かに収入の面『だけ』で言えば、フレッドはシリコンバレーのエンジニアとして、なかなかいい給料を稼いでいる。
しかし実際の生活では、稼ぐのを上回って子供のように考えなしにお金を使ってしまう彼の悪癖に苦しめられて、家計はいつも火の車だった。
葱の根っこまでかじるような生活の中、私が妊娠期間中に買えた物といったら、$20のマタニティー・ジーンズが一本だけ。無茶苦茶なクレジットのヒストリーのおかげで銀行からも閉め出しをくらい、結婚生活を送る銀行の口座でさえも、私の名前との共同口座でやっと開けたような状態だった。
コートで決められたベビーの養育費負担、チャイルドサポートにしても、最初の頃には全く払ってくれる気配がなく、結局はまたコートで、毎月給料から直接天引される処置を取られてしまったような男である。
いったい、これのどこから『責任感』などという立派な言葉が飛び出して来たりするのだろう?
全くフレッドの冗談のセンスにはいつも感心させられる。
今回の引っ越しについては、ビジテーションのピックアップの関係などもあって、前々からフレッドには全て状況を説明していた。急な家賃の値上がりからこのティブロン生活に至った過程まで、何か状況が変わる度に、その都度概要を伝えていた。
それがあの狸には、ベビーの親権をとる絶好のチャンスに映ったようだ。
カリフォルニアの法律では、親権を保持する条件の中に、『子供に安定して安全な生活を与える事が出来る定住地を持っていること』という項目がある。
結局フレッドは、私のこのホテルでの仮住まいの状況を利用して話を作り替える事によって、親権を取る恰好の口実が出来上がるとでも思ったのだろう。
そんなお目出度い短絡思考には、もうほとほとうんざりだ。
これまでフレッドはこのティブロンにやって来ても、『なんて素敵な場所なんだ』なんて、上機嫌のお上りさんよろしくはしゃいだ様子を見せていた。ホテル暮しについても、特別何かを質問したり文句を言って来たりする事もなく、私も全てがうまく行っている物だと疑いの欠片も持つ事がなかった。
それが、今日のこの『爆弾』である。
それも自分はこそこそと陰に隠れて、この『果たし状』を、何も知らない妹に託すこずるさ‥。こちらのほうが情けない。
フレッドのクリエイティブな才能に溢れる馬鹿げた書類を読み進む内、胸の中には、怒りとも悲しみともつかない強い感情が突き上げて来た。
今までコートが持上がる度に、沢山の人たちを巻き込みながら、ミーティングに時間を費やし、面倒な行程を一つ一つ乗り越えて来た。そうして今、やっと親権の行方も決まりビジテーションのスケジュールも整理されて、これからはもう、コートやフレッドに掻き回されることもなく新しい生活の基板づくりに集中出来ると安心した矢先、それがまた、こんな蛭のようにしつこくて気紛れな彼の策略で、理不尽にもコートまで引っ張り戻されてしまう。
また、一から弁護士とのミーティングに振り回され、ミディエーションでヘイワードまで引っ張り出され、そんなごたごたが繰り返されて行く。
『いったいいつまで、あんな男に私の生活が振り回され続けなきゃいけないのだろう‥?』
混み入った思いがごちゃごちゃに交差してぶつかり合い、突き上げて来る収集のつけようのない感情に、胃が掻きむしられる思いがした。
『今度のコートでは、もしかしたらベビーを取り上げられてしまうかもしれない。』
思わず両腕で自分の体を抱きしめる。
まるでそこにある何か無気味な力が、私から全てを根こそぎに剥ぎ取って行くような恐怖を感じた。